HERE NOTE|黒川雅之

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8 CONCEPTS

概念

1_HORIZON | platform

2_OPEN DEVICE|anti-furniture

3_ANIMA|anti-cyborg

4_INFRA-FRAME | organization

5_HYBRID | skin

6_SIMPLICITY & MINIMALISM | less is more

7_MINIMAL & MATERIAL | antinomy

8_NEGATIVITY & PASSIVITY | temptation

1_HORIZON | PLATFORM

人は水平な平面/HORIZONで活動する。

人は水平な平面を探し、作って生活してきた。人の発見した最初の道具は水平面/HORIZONだった。水平面を確保した人類はそこに文化を文明を形成した。

日本でも中国でも、アジアの人々はこの水平面を床、あるいはデッキとして発達させ、日本では家のほとんどを水平面で覆うほどに広大な床/STAGEを生活の場として作り上げた。そこは家具を必要としない多様な居住の可能なもので、まるで巨大な、家族のための船のようだった。

この水平面/HORIZONが現代では都市になり、道路になり、建築になり、家具になっている。猿が樹木に住みための都市を作ったように、もぐらは地中の連続した穴に都市を作ったように、人は水平面/HORIZONが都市になった。

この水平面/HORIZONを再発見して装置をつくる。はじめにフロアーの水平面があり、寝るための水平面が、そして、さまざまな作業のための水平面、座るための水平面、物や本を置くための水平面が生まれる。
これらの水平面は人々が集うプラットフォームでもある。

新たなる地平線を装置としてつくるのがこのプロジェクトである。

書院造の床は屋根の下に「ステージ」のように置かれ、人(=物)がそこに流動的に群れた。 群れのためのプラットフォーム(=地と図の地)だ。

最初のプラットフォーム/PLATFORMは大地だ。

色々なプラットフォーム(水平面/HORIZON)を発見する。

2_OPEN DEVICE | ANTI-FURNITURE

生活を支える水平レベル|PLATFORM

ヨーロッパの家具/FURNITUREの概念は建築の内装/FURNISHINGから来ている。建築から内装が自立してFURNITUREになったのだ。絵画/PAINTINGも、彫刻/SCULPTUREも建築の一部だったものが自律したのだ。建築は全ての芸術の母だった。

建築を空間と捉えるのは「世界は神の創造した空間」からでもあり「初めの建築は洞窟だった」ことからでもあるだろう。共通する、支配的なものは「空間」でありその一部としての内装であり、それが家具だったのだ。

アジアは神々の意味を混沌から分節して世界観を物の群れとして捉える。また、アジアの建築は樹木とその集合である樹林として捉えられている。神々を意味する樹木が「柱」となり、そこに大地から持ち上がった「床/FLOOR」が加わってできている。要するにアジアでは建築は「物」だったのだ。
「柱」も「床」も物であり、建築を物として捉えている。物とは神々であり魂である。神々も魂も装置なのだ。

アジアの建築には空間の概念がない。空間はキリスト教の世界観から生まれたヨーロッパの世界観が生み出したものだった。そこにこそ内装の一部としての家具が生まれたのだから、当然、日本をはじめとするアジアの建築に空間があろう筈がない。
日本では神々を意味する柱の群れがまるで樹林のように間をつくる。樹間のように柱と柱の群の間合いが生活空間だったのである。床(floor)が生活の全てを支えていたのである。

3_ANIMA | ANTI-CYBORG

間を持つ装置|OPEN DEVICE

サイボーグを理想とする思想がある。移動する人間のための道具が身体に埋め込まれて一体となることが最も 好ましい道具のあり方だとする考え方である。道具がウエアラブルになることをより進化させて人が道具を取り 込んでしまうのだ。できることなら、コンピュータが脳に埋め込まれ、望遠鏡や顕微鏡が目に埋め込まれて、 人間の能力を強化しようと言う発想だ。
しかし、道具を生体と一体化させることはいいことではない。道具は生きものにとって異物だから、異物は異物として生体の外に人と の好ましい関係を作るのがいい。

アジアでは道具は神々であり魂(ANIMA)だった。畏怖の情を持ち敬意を持って接していた。道具の自律性を大切 にして、道具と手の間には「間」を設けていた。大工の鉋は人の手に馴染まないように四角く、着物は ボディーコンシャスではなく、身体と着物に間には風も通る手頃な間がある。毛筆の軸もただ丸く手の形に合わ せてはいない。道具と人の身体の間に間に持たせることで人は道具を操作する。会話するように身体と道具が 遊ぶのだ。この遊びが間を形成している。

道具はサイボーグのように身体と一体化してはならない。道具は神々であり魂であるかのように独自性を持ち、 人々と好ましい関係を開いていくものでなくてはならない。

むしろ、道具をどこまで神々に近づけるか、どこまで魂でありうるかをこそ考えるべきだろう。

SEAT と CHAIR の二つの椅子がある。SEAT は乗り物の椅子のように身体を椅子と一体化する発想で生まれ、 CHAIR は僧院や宮殿などの長い歴史から生まれた象徴的な椅子である。近代以後に生まれた SOFAは近代の 合理主義を反映して身体と一体化する SEATの思想に巻き込まれている。この提案はそこからの解放による PLATFORMの椅子である。

4_INFRA-FRAME | less designed to update

多様な機能部品と各種デスクトップを支えるフレーム

スティールのフレームが構造を構成する。大スパンの華奢な構造を構成する。そのフレームに、上部からはデスクトップが、側部からは収納や配線のためのサイドボックスが、下部からは引き出しが装着される。

テーブルトップ、デスクトップは人々のメンタルなものに関係する重要な部位である。大理石や花崗岩などの石を用いることもできる。ガラスの透明な素材で床まで足元が見えるようにもできる。木質のパネル、自然素材を用いることもできる。一人一人の好みに応じてさまざまに対応する。

サイドボックスは左右どちらからも配線をデスクトップに誘導し、かつ、余分なコードの収納スペースにもなっている。
下部には引き出しが基本であるが、その他の多様な補助具をぶら下げる。レールが設置されていて、左右に移動させることができる。エクゼクティブのためのデスク、茶のためのテーブル、書画のためのテーブルにもできる。

多様な機能部品を前後左右に、上下に接続するためのインフラフレーム/INFRA-FRAMEである。
奥行きは固定だが、幅は自由に決めオーダーできる。

5_HYBRID | body and skin

鉄と木の装置

FRAMEのテーブルは鉄の構造に木の機能部品でできている。CHAIRSも鉄の脚と木の曲げ合板でできている。
その上、椅子の表面は植物繊維のデニムである。STAGEという名の本棚は全て合板である。

僕は鉄と木が好きだ。鉄は鉄器時代の昔、人が最初に出会った金属である。土から生まれ熱い炎をくぐって生まれてきた。鉄はまるで木のように曲げやすく、 加工しやすく、人と長い長い歴史を持つ親しみの持てる素材である。

 

鉄はスクラップになっても新しい鉄を作るための触媒として生かされる。再生可能な素材である。木もまた再び、チップになって再生される。本当に壊れきったら 燃やすことができる。鉄は金属製の木のようである。

鉄と木が様々な場面で共演する。テーブルのFRAMEではそれぞれの役割を持つ。鉄のINFRA-FRAMEはいつまでもそこにいるが、木製のACCESSORYは 取り替えることができる。木製のアクセサリーが壊れても鉄のフレームだけでいつまでも水平面/HORAIZONを維持し続ける。

適材適所に素材が働く。椅子の金属の脚は強度があり、脚を覆った木は人に優しい。

鉄と植物と鉱物

6_SIMPLICITY & MINIMALISM | less is more

多様性と葛藤からの弁証法的飛躍

現代は多様性の時代である。いや、世界は初めから多様性が支配していた。多様性は矛盾を生み、葛藤に 落とし込む。多様性を統一することなく維持したままに矛盾と葛藤を美に消化したいとき、シンプリシティ は現れる。そこからミニマリズムが生まれるのだ。

多様性の内的な矛盾を昇華させる。それがシンプリシティでありミニマリズムである。
PROTOTYPE/原型も同じ経過を経て見えてくる。それらは多様性が前提になっている。多様性の克服 のためにこれらの概念が生まれたのだ。これを弁証法的飛躍という。
弁証法的飛躍とは、多様性を全て受け止めていると過剰な矛盾が激しい葛藤を生み出すことになるのだが、 その葛藤を止揚することで全く新しい世界観が生まれてくることを言う。日本の美意識にある「粋」もその 一つであるが、千利休の数寄もそれであり、意識の飛躍が生み出すものだ。
そこには反抗の意識がある。苦悩があり、悲しみや寂しさをも含む抵抗する美意識が深層にある。

「反抗」や「抵抗」、そして、 「諦め」や「悟り」に至り、追い込まれて飛翔することで日本の美意識は 生まれた。「傾奇者」や「婆娑羅」など、日本の美の歴史には矛盾と葛藤が導き出す美意識が多くある。
「正統」に対しての「反抗」なのだが、この思想の背後には「未知なる混沌」を前提とする永久に極められ ないものへの負の意識も否定できない。
シンプリシティがただ単純なのではなく、饒舌な言葉を発しており、豊穣な美しさがあるのも、その背後に 多様性や混沌の底知れぬ命の豊かさが隠されているのだろう。饒舌な沈黙なのであり、華麗なミニマリズム なのだ。

TABLE とDESK というプラットフォームは家具の中で最も多様性を孕んだものである。書画やデザインなど の創作、PCによる情報処理作業、茶や食というもてなし、会議や議論のための知的交流などを全てを含んでいる。 それらを全て一つのプラットフォームに濃縮している。多様な行為を連続的に行うこともできる。

7_MINIMAL & MATERIAL | antinomy, anima and nature

形態感覚を抑えて素材感覚を表現

素材とは人が対面する最も原初的な相手である。大地から生まれたそのままの姿であろうし、混沌の欠片とも いうべき多様性の塊である。

人は素材と出会って、それをじっと見つめてどんな加工をしようかと考える。その性質を理解しなければ加工 はできない。素材はその性質を主張し続けてそれに反した加工をすると酷い反撃に遭う。細心の注意を払って、 素材の気持ちを読み取ってその性質に身を任せていなくてはならない。
これは自然そのものと同じである。荒海で船が壊れないのは荒海に翻弄されるからだという。海に反抗すると 破壊される。人の力は自然を超えることはできないのだ。

素材という小さな海も、その性質は大きな海と変わらない。反抗すれば痛い思いをすることになる。

その素材の性質には従順に、しかし、その形で反抗しようとするのがここでのテーマである。素材は混沌であ り、多様性そのものだから、その逆に、最小の表現をしようとするのだ。自由奔放な形状をする素材を幾何学的 形態に閉じ込める。そこには激しい闘争が起こる。

儚い人の反抗である。命も細胞の生死に対して反抗するかの如く分裂し増殖する。命は死への反抗なのだ。

TABLE とDESK というプラットフォームは家具の中で最も多様性を孕んだものである。書画やデザインなど の創作、PCによる情報処理作業、茶や食というもてなし、会議や議論のための知的交流などを全てを含んでいる。 それらを全て一つのプラットフォームに濃縮している。多様な行為を連続的に行うこともできる。

8_NEGATIVITY & PASSIVITY | temptation

受動的で負と否定と反抗の美意識

初めの混沌がある。そこから言葉を発見していく。複数の言葉が見つかるとなんとなく世界の様子が言葉の 群れとして見えてくる。言葉のコラージュだ。

言葉が見つかっても、いつも、永久に、未知の部分が残り続けている。混沌はいつまでも未知の神秘を見せて いる。この未知の部分が負の部分だ。物があるからその背景として地として見える。地と図の関係である。
この地とは環境でもあり大地でもある。
未知の部分、負の部分がいつも大きな意味を持ち続ける。それが「間」になる。「間」は言葉/物があるから 生まれる領域である。何かがあってそれに付随して見えてくる、受動的な領域が人々の好奇心を駆り立て続ける。

言葉と間の関係が光に対する影であり、陽に対しての陰としてパッシヴィティであり、混沌という ネガティヴィティでなものが常に意識を支配している。
受け身の美意識が育っていく。誘惑されること、遠慮することの美はパッシブな美であり、間の美意識も このパッシブな美意識だ。

アジアが海からの湿気を受けて温暖湿潤な気候であることもこの負の美意識を支えている。歌謡曲は常に 哀しさや寂しさを歌っている。太陽ではなく月を愛で、光よりも影を愛する。
ヨーロッパの気候はアフリカから地中海を経て砂漠の風が乾燥した気候を生み出した。美は太陽の美であり、 歌はカンツォーネであり、裸体に美を見つける。アジアの美意識のまるで真逆の美意識である。
アジアはいつもNEGATIVITYとPASSIVITYの中にいる。

千年を超えると歴史を持つ中国人と椅子の歴史を維持しながら現代の椅子を形象化しようする、パッシブな創作態度 がこの椅子を生み出した。副次的なアームが構造体になり、座るという主要な目的がそれに付加する構造である。